もしも英語が使えたら

 

はじめに

久々にはてなブログを開けたら、「もしも英語が使えたら」というお題が目に付いて、興味を持ったので書いてみよう。

 

とはいうものの、僕はある程度英語が話せるので、今よりももっと自由に英語を話せたら何をしたいかという視点で書いていきますね。

結論から言うと、「僕は英語で英語と数学を教えたい」、なんですな。

 

まぁ、塾講師時代を振り返ると、英語の需要というのは高いもので、生徒も躓くのは英語が多い。とかく、この日本では、英語教育上での問題点が多い、なんて思います。

 

では、その問題点って具体的に何でしょう?1つ目が試験、2つ目が話す回数が少ない、3つ目が間違えると恥ずかしいという思い込み、ですね。では、順々に書いていきますね。

 

①試験

まずはこれ。「試験があること」ですね。これ何で問題かとうと、「試験で点を取ること」が目的化してしますことがマズいから、なんですよね。実際に、佐藤優氏の『読書の技法』とか見てみると、「資格試験や大学入試に合格することが目的になっているから、試験に合格した途端に勉強する意欲を失う」ことが書かれています。つまり、「日常で使う」という意識がない。故に「英語・数学=がりがり机に向かってやる、難しくて、役に立たない」という考えが育ってしまうんですな。

 

②そもそも英語を話す回数が少ない

僕は、これが根本問題の一つだと思っています。文法ばっかしやって、実際に生の英語を使う回数が異様に少ないんですね。僕が中学生の頃もそうでした。メンタリストDaiGo氏の『科学的に正しい英語勉強法』なんか読んでみると、「海外では、英語は英語で教わる」なんて書いてあるんですな。僕も、大学生ん頃は、シドニーとロサンゼルスの海外研修に行きましたが、全部英語でした。つまり、英語漬けだ、というわけなんです。このようにして、英語に触れる回数があればいいですけど、それは、あんまりないですよね。これが深く根を張ってるんです

 

③間違えると恥ずかしいという思い込み

これも、根本原因の一つですね。この日本って、多くが「正しい答えを求める」じゃないですか。しかも、その「正しい答え」は「相手(上)にとっての正しい答え」ですよ。しかも、これが学校の時からあり、「間違え=悪」という安直な決めつけによって生徒が間違える機会を奪うんですよね。これを、生徒目線から見ると、どうなるでしょう。「間違えるんが怖いから何もやらない」という風に固まってしまうんです。いわゆる「完璧主義」です。メンタリストDaiGo氏の『究極のマインドフルネス』とか見てみると、完璧主義がいかに恐ろしいか書かれています。挑戦しなくなり、誠実性も下がるんですよ。これは人生において、かなりマイナスなことです。

 

じゃあどうするのか

そこで、英語で英語と数学を教えるなんですよ。そもそも、数学も記号と数字を組み合わせた言語なんですね。まず、日本語という第一言語を使っていないので、間違えは必須になってきます。それに、海外とか行ってみると、大体文法なんて無視。正しくは直すなんて思ってません。僕たちも日本語を話そうとするとき、正しく話すなんて逐一思いませんよね?それに、例えば、皆さんが渋谷かなんかで、片言の日本語で道を聞かれたとしましょう。その時皆さんは何とかして相手の言いたいことを聞いて、答えるじゃないですか。その時、片言なんて気にならないはずです。それと同じで、皆さんが片言の英語を話しても、向こうの方々は答えてくれます。なので、間違えて全然OKなんですよ。それに、英語で英語と数学を教えれば、英語と数学に触れる機会が増えます。

 

というのもあり、僕は、英語で英語と数学を教えたいですな。

 

参考文献

小学校の英語必修化でどう変わった?親が知っておきたい小学生の英語学習 | SODATTE(そだって)−子育てとお金の情報サイト−

佐藤優(2012~2020)
『読書の技法』
東洋経済新報社

メンタリストDaiGo(2018~2020)
『科学的に正しい英語勉強法』
DHC

メンタリストDaiGo(2020)
『自分を操り、不安をなくす究極のマインドフルネス』
PHP研究所